アニタ・ムイ
以下の二つの文章はSATOさんが管理する「百恵Archives」のために書いたものです。訂正・加筆してここに改めて載せることにしました。
百恵さんと香港のスーパースター
12月30日
2003年は百恵さんが歌手デビューをして30周年という記念すべき年だった。引退をしてから20年以上もたつのに、百恵さんの歌はいまだに愛され、歌い継がれている。その証拠に、全オリジナル・アルバムとカラオケや未発表曲を含めたCDボックス「Momoe Premiun」が予想を大きく上回る売り上げになった。そして、年の瀬も迫った12月30日に、札幌の三角山FM放送局は彼女の大ファン、<百恵も燃えさん>がDJを勤める「百恵回帰~山口百恵の8年間~」と題する9時間のライブ特別番組を放送すると知った。
2003年12月30日。別の意味で、私にとって一生忘れられない日になった。
「百恵回帰~山口百恵の8年間~」はインターネットで「おしゃべり」の部分だけだが聞けるというので、私は12月29日の午後4時(17時間の時差があるので日本時間の朝9時はロサンゼルスではこの時間になる)からの放送を前にコンピュータを起動させた。先ずはメールをチェック。予想もしていなかった悲報が届いていた。
「香港のスーパースター、アニタ・ムイ(40)、30日未明逝去!」
えっ、そんな馬鹿な。嘘でしょう。自分の目を疑った。デマに違いない。これは何かの間違いだ!だが、私の願いもむなしく、彼女の急死を確認するメールが続いていた。香港にとって、SARSに始まった2003年はなんとも悲劇的な年になった。ショウビジネスにとっては呪われた年だ。SARS騒動で香港が動揺している4月1日、スーパースターのレスリー・チャン(張國榮。チョン・コッウィン)がうつ病から自殺し、多くの名作を残した作詞家がガンで亡くなり、車 などのスタントマンとして活躍した俳優が急死し、そして、アニタ・ムイまでもこの世を去ってしまった。百恵さんと関係が深かったレスリーとアニタという香港の二大スーパースターが相次いで亡くなったのだ
レスリーは日本でも少しは知られているが、アニタ・ムイ(梅艶芳と書いて広東語ではムイ・イムフォンと読む)の方は、残念ながら日本では香港映画ファンくらいにしか知られていないだろう。それも、彼女の女優としての部分が主で、本業ともいえる歌手の方ではもっと知られていない。かくいう私もそうだった。だが、彼女は中国語圏内では知らない人がいないスーパースターだった。外国では「東洋のマドンナ」と紹介されることが多かったが、私はむしろ 、その生い立ちを考えれば「香港の美空ひばり」に近い存在だったと思う。いや、アニタ・ムイはアニタ・ムイ。彼女は唯一無二のスーパースターだ。
私がアニタを認識したのは「ワンダーガールズ・東方三侠」という香港映画らしいなんでもありのアクション映画からで、彼女は主題歌と挿入歌を歌っていて、香港には歌のうまい女優さんがいるものだと感心したのがアニタだった。歌われている言葉が全く分からないのに、歌の心が伝わってきてすばらしいと思った。そして、彼女のソロ・コンサートのLDを見てそのショーマンシップに脱帽した。広い舞台を歩きながら、あるいは、踊りながら歌っても息切れひとつせず、観客とのやりとりも軽妙で、全く飽きさせない。すごいエンターテイナーがいるものだと感動すら覚えた。
私にとってのアニタ・ムイ
アニタはまだ40歳という若さだった。4月に彼女の親友であり、苦楽をともにした“戦友”でもあり、実の家族より親密でソウルメイトだったレスリー・チャンを亡くして、自分は彼の分まで生きる、と言っていたのに。その言葉どおり、悲しみを乗り越えるかのように、プロデューサーとして5月下旬に香港の歌手を総動員してSARS犠牲者の家族のためのチャリティー・コンサートを成功させた。9月には、あまりにマスコミの取材がエスカレートしたために自分は子宮頸ガンを患っていると発表し、「私はこのガンに勝って見せる」と力強く宣言したのが記憶に新しい。そして、香港コロシアムでのソロ・コンサート。友人たちがゲストに来て助けてくれたものの8回の公演を無事に終えたばかりだった。あれからたったの6週間あまりでこの世を去ってしまうなんて信じられない。信じたくない!筆舌につくしがたい衝撃に襲われた。打ちのめされて、悲しみが私の心に、体に、じわじわと広がっていった。これはレスリーの死の時にはなかったことだ。来る日も来る日も、ずっとアニタのことが頭から離れなかった。何日もの間、表面上は平常を装って暮らしていたが、一人になると彼女の死を、彼女がどんな気持ちで最後の一年間を生きていたのだろうかと考え続けた。それは私にとって何を意味するのだろうか。肉親以外の死で、私がこれほど深い悲しみに襲われて、動揺することがあろうとは夢にも思わなかった。
アニタの健康がそんなに悪いとは知らなかった。重病だと言う新聞の記事は、「ゴシップ紙の書くことは信じるな。そういうものは買うな」と公言してはばからなかった彼女に対するバッシングだろうくらいに考えていた。何より、最後のコンサートの数日前に私は香港にいて、今見なくても、来年の旧正月のころにラスベガスでコンサート (初めは11月29日の予定だったが、10月に入ってからそれがキャンセルになった)があるはずだからそれに行こう、と日本へ戻ってしまった。どうして、もっと彼女に対する報道を注意深く受け止めなかったのだろうか。後悔してもしきれない無念さがこみ上げた。
私はアニタのファンだという自覚はなかったが、それはマニアックになっていないというだけで、彼女のCDを見れば買っていたし、映画も見ていたし、コンサートのスケジュールにうまくあえば必ず見に行っていた。これは、十分にファンである証拠だった。私にとって、アニタ・ムイはその存在そのものが「安心感」を与えてくれる人だった。97年から毎年行っていた香港のアカデミー賞にあたる「香港電影金像奨」の授賞式には必ずアニタが出席したし、大スターは敬遠しがちになっていた授賞式後のパーティーにも顔を出して、報道陣の取材に忍耐強く応じている姿を垣間見るだけで香港に来てよかったと思った。スターとはこうあるべきだということを実践している人だった。大スターのオーラがあるのに気さくで率直で親しみやすい。しかもプロ意識にたけている。その人と同じ場所を共有しているという事実だけで、私には不思議な満足感があった。そうなのだ。彼女は庶民のリーダー的な存在で、何か問題があれば、彼女が必ず立ち上がって元気付けてくれるという希望の星だった。私にとってアニタは香港を象徴する存在だった。
彼らと百恵さんとの関係
アニタ・ムイ、並びにレスリー・チャンという香港の二大スーパースターと百恵さんとの間にどんな関係があるのか。(少し長くなるが、我慢して読んでいただきたい。)
それは82年にさかのぼる。この年の7月18日、香港の無線電視(TVB)放送局が新人歌手コンテストを主催して17歳の女性が満場一致で優勝した。彼女の名前はアニタ・ムイ。シロウトらしからぬ堂々とした歌いっぷりだった。それもそのはず、彼女は4歳半からステージに立ち、姉とともにイベント会場、遊園地内にある劇場やレストランなどで歌って一家を支えてきたベテランだったのだ。彼女はTVB の系列会社、キャピタル・アーティスト・レコード(華星唱片)会社と契約し、TVB の製作する番組のテーマソングをタイトルにした初アルバム「心債」(といっても片面だけで、裏面は別の歌手の曲)が12月に発売された。因みに、香港ではほとんどがアルバム発売で、シングルはめったに発売しない。それに、トータルなコンセプトでのアルバム作りは稀で、しかも、ヒット曲は何度か別のアルバムに収められる。アルバムは単に曲の寄せ集めと考えてよい。
翌年の3月には第12回東京国際音楽祭に香港代表として参加して、アジア特別賞とTBS 賞を受賞。その結果、彼女は日本語のシングルを2枚出している。詳しい資料がないからはっきりしないが、それと前後して、TVBは百恵さん主演の「赤い疑惑」と「赤い衝撃」を放送したのだと思う。香港では連続テレビドラマは週日の同じ時間帯で毎日放送するのが一般的だ。多分、83年頃の香港も同じだったと思う。ドラマは好評で、アニタはその主題歌(タイトルは「赤的疑惑」)を広東語で歌い番組で流れた。83年の3月に発売された二枚目のアルバル「赤的梅艶芳」には「赤的疑惑」や「赤的衝撃」などが収められて大ヒットし、アニタ・ムイは歌手としてスターへの道を駆け上がった。これが、アニタと百恵さんの出会いだと思っていたら、つい最近になって、アニタは初アルバムの中で「イミテーション・ゴールド」、「I CAME FROM 横須賀」と「放課後」の広東語カバー曲を歌っていると分かった。香港でも百恵さんは人気者になり、彼女の歌が広東語カバーで歌われて大ヒットしたのだった。
一方のレスリー・チャンは77年にアジア歌謡コンテストの香港地区大会に出場したのがきっかけでショウビジネスに足を踏み入れた。が、デビュー当時はあまり順調とは言えず、かなり売れずに苦労したようだ。彼が華星唱片に移籍したのは82年。マネージメントが変わって、彼にもチャンスが訪れた。83年には百恵さんの「さよならの向こう側」をカバーした「風継続吹」をタイトルにしたアルバムを出して人気が出はじめ、84年に出した「LESLIE」で彼はスターの座を確固としたものにする。吉川晃司の「MONICA」を歌って大ブレイクしたのだ。この頃、彼は郷ひろみの曲など日本のポップスをカバーしていた。特に「風継続吹」は後に、彼の(一時)引退映画となる「狼たちの絆」の主題歌になって、彼の代表 歌になった。
レスリーとアニタは同じレコード会社に所属していたこともあって、二人で組んで東南アジアやオーストラリアやアメリカへのコンサート・ツアーをした。当時の移動は飛行機のエコノミーで、二人は一番後ろの席をとって、中央の肘掛をあげ、一人が上に横になると、もう一人は床に寝るというように助け合って旅をしていたそうだ。ホテルも続き部屋をとり、寂しがり屋で暗がりが怖いアニタが寝入るまでレスリーが付き添っていたり、二人で将来のことを話したりしていた そうだ。
レスリーは香港でも有名な洋服の仕立て業を営む父を持ち、イギリスに留学していたこともあるが、十人兄弟の末っ子で仕事に忙しい両親よりも祖母や乳母に育てられた。アニタは兄二人に姉が一人という末っ子で、生まれてすぐに父が死んだこともあって、4歳半から人前で歌ったり踊ったりして一家を支えてきた。夜遅くまで働いていたから、学校との両立は難しく、中学を一年で中退している。彼らの出身は異なるが、家庭的愛に恵まれずに育ったという共通点がある。年の差は7つで、二人は家族よりも深い絆で結ばれていた。世が世であれば、香港の「モモ・トモ」コンビになったかもしれない。彼らのアイドルの一人は当然ながら百恵さんで、彼女がキャリアの頂点で引退した潔さにあこがれていた。二人とも、百恵さんに見習って、歌手をやめる時は惜しまれている間にしよう、と話し合ったとかということを何かで読んだ。
百恵さんをお手本に
80年代初めの香港ポップス界は、それまで長い間、北京語(普通語とにもいい、つまりは中国の標準語のようなもの)の歌や英語ポップスが主流だったことに対して、広州人や香港人が話す広東語(方言のひとつで話し言葉。中国にはざっと30くらいの方言があるといわれている)の歌がとってかわった頃だ。いきおい、作曲家が不足して、日本や外国の歌をカバーするしかなかった。どのくらいカバー曲があるのか把握するのは難しいが、レスリーやアニタだけではなくて当時の歌手のほとんどがカバー曲を歌ったと推測する。
広東語ポップスはこうして全盛をむかえた。大型コンサートを主目的とした香港コロシアムが完成してからは、当時のアイドルたちは年末の音楽賞の受賞とともにコロシアムでのコンサートを人気の象徴とした。英語ポップス・グループ「ウィナーズ」から独立したアラン・タム、レスリー、そしてアニタが「超級三星」と呼ばれる当時のアイドルだった。彼らは、一万二千人収容のコロシアムを何日間にも渡って満員にした。香港は今でさえ、約七百万人の人口だから、そのすごさがどういうものか想像できると思う。アニタのコロシアム初コンサートは85年の12月31日から15回行われた。それ以来、360度の舞台(香港ではこれを「四面」という)狭しと歌って踊って、観客の心を捉えて離さないステージングは彼女に「ステージの女王」という称号を与えた。彼女は生涯で合計147回の公演をそこで行っている。
アニタは女性歌手としてはダントツの人気を誇り、アルバム「赤的梅艶芳」のカバーをディザイナーのエディ・ラウが担当し、次の「飛躍舞台」からは本格的に「百變・梅(バッピン・ムイと読む)」と呼ばれる彼女のイメージ・コーディネートを担当するようになる。百変化・ムイといことで、アニタは曲ごとに衣装・髪型・化粧を、あるときは大胆に、あるときはどぎつく大げさに、変えるようになる。その頃の写真やビデオ・クリップを見ると、いかに当時は濃い化粧が流行していたといっても、ここまですることはなかろうに、と思えないでもないし、当時から彼女は非常にやせていたので、流行の肩パットをこれでもかというように入れた衣装を着たりしている。しかも、「蔓珠莎華」はネクタイにスーツ姿で歌って、そのユニセックスのイメージが大いに受けた。そういう中でも、83年から85年頃までのアニタは百恵さんを意識していたのかメイクや髪型が似ているのを発見して微笑ましく思った。
そして、キャリアのピークを突っ走っていたときに、アニタはソロ・ステージからの引退を表明し、1991年から92年にかけて告別コンサートを行った。これは香港コロシアムで30回行われたのだが、もし、コンサート中に背中を痛めなければ50回は続けるはずだったといわれている。「告別」というのは各音楽賞を辞退して、ソロ・コンサートをしないということで、ステージはチャリティー・コンサートのゲスト出演などにとどめることを意味する。一説によると、彼女はこの時期に結婚を考えていたらしいが、残念ながらその彼とはコンサート前に別れてしまったそうだ。告別ワールド・ツアーのあとの彼女は仕事をスローダウンして、チャリティー活動にエネルギーを注ぐようになる。レスリーはアニタより2年早く89年から90年にかけて引退記念コンサートを33回行った。最終日には、百恵さんの武道館公演 の影響からか、「マイク封印」儀式までしたのだった。彼は本当にショウビジネスからの引退を決意していてカナダに移住までしたのだが、映画出演の依頼を断りきれずに香港へ戻ってくる。二人は今で言う、“バーンアウト”したのだろう。自分たちのアイドル、百恵さんと同じように人気の頂点にいるときに引退したのだった。
次のページ