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カムバック後の二人
しかし、二人は百恵さんとは違う。愛する人と結婚したわけでもなく、幸せな家庭があったわけでもない。ただ、辛抱強く彼らのカムバックを待つ忠実なファンがいた。業界もまだまだ活躍の場がある二人をそう長く放ってはおかない。理由はなんであれ、95年にアニタが正式に復帰してコロシアムで15回のソロ・コンサートを開催すれば、レスリーも映画主題歌のCDを発売して、96年末からコンサート活動も再開する。二人とも、復帰後は、ファンに迎合などせずに、ショウビジネス界をリードする存在になる。コンサートもただ豪華な衣装をとっかえひっかえして歌って踊るというような内容ではなくて、常に観客にチャレンジする、イマジネーションやセクシャリティーの追求というような内容になってくる。アニタは得意のダンスと歌で限りなくエロティシズムを表現すれば、レスリーは自分のセクシャリティーを踏まえた趣向を凝らす、という風に。アーティストとしてパーフォーマンスの追及をする限り、自分たちのファンなら応援してくれる、という大きな自信に根ざしたコンサートだったような気がする。
アニタとレスリーは演技者としても一流で、香港、台湾、中国などの映画賞で演技賞を受賞している。ただ、二人の共演作は「君が好きだから」「ルージュ」「偶然」(未)「僕らはいつも恋してる・金枝玉葉2」の4作しかない。レコーディングされたデュエットにいたってはたったの2曲しかないが、アイドルの頃はテレビの歌番組やバラエティー番組での共演も多く、お互いの持ち歌などをデュエットしている。二人の追悼番組でその断片をみた。中でも、アニタの「ロックンロール・ウィドウ」のカバー「冰山大火」を二人が踊って歌うクリップは良かった。
カムバック後の二人は、以前ほど頻繁に共演するようなことはなくなったが、二人はお互いのコンサートのキー・ゲストとして登場したり、2000年には映画監督の路に進みたがっていたレスリーが“禁煙キャンペーン”の短編に主演・監督するとなれば、アニタも彼の妻役で協力したり、二人のデュエット曲「芳華絶代」のミュージック・ビデオをレスリーが監督したり、と彼らのコラボレーションは続いていた。公の共演となったのは、02年の4月、アニタの芸能生活20周年を記念した「梅艶芳極夢幻演唱会(Fantasy Gig Concert)」の最終日、アンコールにゲストとしてレスリーが登場したのが最後だ。二人は生涯のレコーディング・デュエット2曲を歌った。そのDVDを見ていると、リハーサルなどはする時間がなかっただろうに二人の息がぴたりとあっている。絶妙のコンビぶりだった。
そういう二人が2003年に亡くなった。レスリーはあのコンサートの頃から体調が悪かったそうだ。アニタも実は、亡くなってからわかったことだが、子宮頸ガンがゆっくりと進行していた。レスリーは予定していた映画監督の仕事が投資者の問題で暗礁に乗り上げ、失意がうつ病を悪化させて、4月1日にマンダリン・ホテルの24階から発作的に飛び降り自殺してしまったのだといわれている。それがアニタに与えたショックは相当なものだった。仏教に帰依していた彼女はレスリーのお葬式までの一週間、家から一歩も出ずにお経を唱えていたという。後追い自殺の可能性もあると、彼女や彼の友人たちが交代でアニタに付き添っていたそうだ。お葬式での憔悴しきった彼女の姿は痛々しかった。会場ではレスリーが歌う百恵さんの「さよならの向こう側」のカバー曲「風継続吹」が流れていた。追悼番組でも同様で、レスリーといえば「風継続吹」が必ず使われ、彼のシグニチャー・ソングになってしまった。
アニタの最後の9ヶ月
アニタは自分の病状をかなり前から知っていた。子宮に腫瘍があるというのは2000年ごろから医者に言われていて手術を勧められたが、「仕事で忙しい」といって治療を受けなかった。手術をして子供が産めなくなったらいやだ、手術の影響で声が出なくなったら困る、アニタと一番心が通じていた姉のアンが子宮ガンで苦しんで亡くなったのをみているので西洋医学を信用していなかった ・・・等といろんな憶測がある。もし、このときに思い切って手術を受けていればガンは完治したかもしれないのに惜しい死だ、とも報じられた。今となっては、アニタに真実を確かめるすべがない。ただ、2002年末に最も親しかったエディ・ラウに送ったカードの中で「この世の人生は一幕の夢であり、すべては天命だ。私はたとえ短くても、よき友人たちとすばらしく輝かしく過ごすことが唯一の望みだ」と書いてる。
問題はレスリーが亡くなったときに、彼女は自分がガンに侵されていてそう長くは生きられないかもしれないと自覚していたことだ。生きようと思えばもっと生きられたレスリーが自ら命を絶ち、自分の命は天命とはいえ残り少ない。当時のアニタの気持ちを考えると辛い。しかし、それからの彼女は、以前にも増してチャリティー活動に精を出し、前述したように、5月23日にSARS犠牲者の家族に対するチャリティー・コンサート「1:99」をプロデュースする。完全に裏方に回って、出演交渉からショウの構成、パブリシティに至るまで全てにわたって関わった。不眠不休で取り組んだ甲斐があってチャリティーは大成功したが、結果的にいうとこれがガンの進行を早めたと思う。
彼女の病状を知った友人たちは、西洋医学の治療を受けるように強く勧めた。彼女もそれに同意したが、マスコミが嗅ぎ付けてしまった。彼らはアニタの家の前で張り込みをするは、外出すればあとをつけるは、病院まで押しかけるは、でおちおち治療を受けられない状況になった。何より、一般の人たちがそれによって迷惑をこうむるようになったのをみて、とうとうアニタは9月に自分はガンであると発表した。このときの記者会見では、アニタをサポートするためにジャッキー・チェンをはじめとする20人あまりのスターや仕事の関係者が集まるという異例のものだった。アニタは感情的にもならず、涙も見せず、きわめて冷静に「ガンは良性のもので、まだ、末期ではないので必ずこれに打ち勝ってみせる」と宣言したのだった。誰もが彼女の言葉を信じた。アニタなら負けはしない、と。
マスコミは、彼女の願いも空しく、さらにスクープをとろうと躍起になった。アニタは周囲の「ゆっくり休んで病気を治すのが先決」という言葉には従わず、平常に仕事を続けた。仕事をしていれば余計なことは考えないし、完全主義の彼女には仕事がエネルギー源だった。10月10日に40歳の誕生パーティーを開き、11月には「梅艶芳経典金曲演唱会 (Classic Moment Live)」というコンサートを8回行った。コンサート前に抗がん治療を受けて体力がガクンと落ちてしまい、リハーサルもままならなかったようだが、そこは長年培った経験と自信で乗り切った。ステージの上で死ねたら本望とも思っていたらしい。知人には「もし、今、コンサートをしなければ次はない」と言ったそうだ。衣装がえの楽屋ではアシスタントに寄りかかって休んでいたとか、ヒーターを6つ使っていたが「まだ寒い」と言ったとか、熱があったとか、食事がほとんど取れない状態だったとか、は彼女が亡くなってから知ったことだ。テレビ局の追悼ビデオ・クリップ集で当時の報道を見ても、彼女はスタスタ歩いているし、コロシアムから帰途につくときもファンの声援に応えている。ライブCDを聴いても、確かに、彼女は病身で、ベストの体調ではないから声がかすれたり高音が出にくかったりしているが、とても力強い歌声で、そんな状態だったなんて微塵もうかがえない。彼女のエンターテイナー魂がそうさせたのだろうか。
このコンサートのアンコールでは、アニタは純白の豪華なウェディング・ドレス姿で登場した。実生活ではついに着ることがなかったウェディング・ドレスを着て、いわばステージと結婚したのだ、とファンに見せた。近藤真彦の「夕日の歌」をカバーした「夕陽之歌」を歌いながら赤いカーペットを敷き詰めた階段を上り、途中で振り向いて歌った。最上段に上がったときに観客に向かって手を振り「バイ、バイ」と別れの言葉を言い、チャペルのドアが静かにしまった。それは、天国への門のようだった、と人は言う。彼女はしっかりとファンに一番美しい姿で別れを告げた。コンサートの最終日はもう一曲アンコールがあった。今が人生で大切なとき、それは別れのときだから、という「珍惜再會時」を歌い、最後のフレーズ「Let’s just kiss and say goodbye」は涙がこみ上げたが、しっかり歌い上げた。sayとgoodbye の間に「I love you」とつぶやき、歌い終えた。エンディングのメロディーが演奏される中、アニタを乗せたセリがゆっくりと下がった。「多謝(ありがとう!)」と叫んだアニタ。万感のラストだ。
アニタの最後の仕事は痩身エステサロンのコマーシャル撮りだった。11月24日に紅葉の京都へ行くときは元気だったのに、28日に帰ってきたときは別人のように弱々しかった。そのときのビデオ・クリップを見ると胸が詰まる。例年になく寒かった京都で体調を崩したようだ。これが公に見せたアニタの最後の姿だった。
アニタは日本から帰ってすぐに病院へ行った。即、入院。周囲の人たちは、彼女の病状をひたかくしに隠した。 クリスマスの夜は、あたかも彼女が自宅にいるような芝居までした。そして、12月29日の夕方、医者から「今夜が峠」と告げられ、その知らせがアニタの友人たちに伝わった。続々と病院に集まるスターたち。アニタはショウビジネス界で、親しい人たちから「阿梅(ア・ムイ)」と呼ばれ、同年代や後輩からは「梅姐(ムイ・ジェ)」と尊敬の念を持って呼ばれていただけに、香港のショウビジネス界の主だった人たちがアニタと最後の別れをしにやってきたのだ。友人が連れてきた僧侶たちが静かに読経をするなか、彼らは別れの言葉をかけ、アニタは午前2時50分に静かに旅立っていった。それから、協議の末、午前4時10分、約50人のスターたちが一堂に会して記者発表があった。ガン発表からたったの117日だった。
香港の娘
葬儀は1月12日だったが、その前日はアニタと の最後のお別れができるように、と葬儀場が一般に開放された。夕方からの開場なのに、朝早くから老若男女三千人以上が集まった。葬儀会場ではアニタが歌う「心経(般若心経にメロディをつけたもの)」が流れ続けた。「泣いたり、私の名前を 叫んだりしないで。阿弥陀仏と唱え、私の旅路を祈って欲しい」というのがアニタの最後の願いだった。12日、生前から彼女と親しかった四人が弔辞を述べたが 、張敏儀が「アニタは山口百恵の生き方が理想だった。彼女のように、結婚して子供がいる家庭を作るのが夢だった」と話した。シンプルと思えるこの願いはとうとう叶わなかった。
アニタは多分、普通の人の倍の速度で生きていたのだと思う。四十歳という短い一生だったが、彼女が成しえた業績ははかりしれない。追悼番組の長さと多さ、新聞の特集ページ数、追悼雑誌の数、何枚のレコードを売ったとか、どんな賞をどれだけ取ったとかという数字は問題ではない。彼女が残したものは形にならない目に見えないものだ。それは、歌の心であり、彼女のプロフェッショナリズムであり、優しさと愛情であり、勇気であり、正義感であり、誠実さと責任感であり、救済と慈善の精神であり、努力と常に上を目指す探究心であり、困難に立ち向かう不屈の精神、ファイティング・スピリットだ。
1月9日の新聞に掲載された葬儀告示の見出しはこうだ。
<さようなら、香港の娘(中国語では「香港的女兒」)!
香港人とともに歌い和し呼吸し喜び悲しんだ梅艶芳さん、不幸も2003年12月30日火曜日午前2時50分人間と決別。享年40歳>
<追記>もっとアニタについて書きたいことがあるのだが、このへんでやめておく。百恵さんはレスリー・チャンもアニタ・ムイも知らないだろうし(ごく、最近になって、古い雑誌の記事に、アニタが日本へ行ったときに百恵さんと電話で話したことがある、と載っていたのをみた。百恵さんは覚えているだろうか)、芸能界を引退した今となっては関心すらないかもしれない。百恵さんのファンも香港でのことなど関係ないと思うかもしれない。しかし、もし、私の拙文で、百恵さんの歌を歌い、彼女を理想とした香港のスーパースターがいたことを心の片隅にでも覚えていてくれたら、両方のファンとしてこれ以上のことはない。レスリーに関しては日本語のホームページがいくつかあるのでそちらを参考にしていただきたい。アニタには日本語ではないが、中国語と英語のサイトがある。www.muimusic.com また、「POP ASIA」という雑誌が49号でアニタの一生について、50号では追悼記事を載せている。彼女の出演した映画についてほとんど書けなかったが、「酔拳2」「アゲイン・男たちの挽歌3」などがお勧めで、私個人としては「夜間飛行」のような作品も彼女の演技がすばらしいと思う。(2004年5月記)
アニタ・ムイ一周忌 スィート・メモリーズ
私の2004年はアニタ・ムイ(梅艶芳)で始まってアニタ・ムイで終わろうとしている。あと少しで、あの信じられないニュースを知った日、アニタの命日が来る。今年は、その時間に香港にいるようにしようと思う。それが私なりの気持ちのつけ方だ。どうやら、私と同じ考えのファンが多そうだ。彼女のファンクラブが主催する一周忌の法要があるから、世界各国からファンがそれに参加する予定だとか。マスコミが集まってきて単なる興味本位だけの取材をされそうだが、それは仕方がない。無視しよう。
実は、ファンクラブが主催したアニタ関係の集まりは去る10月にもあった。アニタの誕生日が10日で、毎年その近くの日曜日にアニタのバースデー・パーティーが開かれていた。ファンクラブ会員ではなくても参加費を払えば行けたそうで、そのときの写真を見ると、実に楽しそうなアニタがいる。彼女は主役だから何もしなくても良いはずだが、この集いはバースデー・ケーキ・カットのあとは、ファンの質問に答えたり、歌を歌ったり、ダンスを見せたり、ファンとゲームを楽しんだり、とアニタがファンをもてなす感じのイベントになっている。いうなれば、年に一度だけ、三百人くらいのファンがアニタを独占できるひとときなのだ。
主役はいないが、今年も10月10日にバースデー・パーティーが開かれた。この時も、海外のファンがかけつけた。ケーキは置かれたものの、カットはない代わりに、過去にパーティーの司会を務めたアニタゆかりの人 たちが思い出を語ったそうだ。そのあと、ファン秘蔵のアニタとのツーショットや思い出のショットなどのスライド・ショウがあり、アニタの友人でもありファンクラブの会長を務める女性が撮った、プライベート・ビデオの上映が続いた。それは、限られた人たちにしか見せない素顔のアニタを撮ったビデオだ。断るまでもなく、メーキャップをしていないアニタ、という意味ではない。ベッカム・ファンのアニタが、イギリスで試合を見た後、彼を一目見ようと選手通用口へ急ぐ姿とか、コンサートの楽屋での姿など、少女っぽくて、ひょうきんで可愛らしいアニタが次々に映されたそうだ。
このパーティーでは、アニタのレコード・カバーや映画のポスターなども展示され、珍しいイベントのポスターやバック・ステージ・パス、写真などが売られた。最後に、ファンが提供した、アニタのサイン入りポートレートや雑誌などのオークションもあり、その収益はアニタが創立したチャリティーに寄付されたそうだ。 このパーティーの話を聞けば聞くほど、行くべきだったなぁ、と思った。何よりも、門外不出のビデオは見たかった。
私はアニタが亡くなってから本格的にファンになった。 彼女を見たことは何度もあり、会って話したこともあるが、それは、ファンになる前のことだった。亡くなってから葬儀が行われるまでに10日間以上もあり、香港では記録的な長さの追悼番組が放送された。その一部が、海外の中国人のためにビデオ化されて、レンタルしていたので借りて見た。そのうちに、香港や中国のファンがアニタに関する映像や歌をアップロードしているサイトを見つけ、かなりのものをダウンロードできた。著作権法に違反することだとは思うが、そこに金銭トレードはないし、ダウンロードしたものを売るわけでもないのだから良かろうという勝手な解釈をしている。サイバーワールド、さま、さま、だ。
そういうサイトのひとつに、ファンがビデオに撮った2002年のバースデー・パーティーがアップされた。私は、一時期、その8分くらいの長さのフッテージを一日に一度は必ず見ていた。それはアニタがファンのリクエストに答えて「Faithfully(フェイスフリー)」という曲を歌おうとするのだが、スタッフがカラオケを見つけられずに手間取ってしまう。スタッフと話しているアニタの耳に、ファンの歌う「Faithfully」が聞こえ、それが大合唱になる。歌が終わる頃にはカラオケが見つかり、今度はアニタが ちゃんと歌ってお返しをする。歌い終わって、アニタはまだ先ほどの感動覚めやらず、だったが・・・というもので、文章にしてしまうとどこが良いのか分からないだろう が、とにかく、感動的で楽しい映像だ。これを見ると元気になれる、そういう映像なのだ。
あるアニタ・ファンが私に言ったことがある。「私たちファンはアニタとの数多くのスィート・メモリー(楽しい思い出)があるんだよ。それに、アニタはもう生前の一切の苦しみから解放されて天国で幸せな日々を過ごしているに違いない。どうして哀しむ必要があるの?」と。2004年は、ついつい、「昨年の今頃はどうだった」とか「あんなことがあった」とアニタのありし日の姿を思い出して落ち込んでいるのではないか、と考えた私は浅はかだった。アニタがこの世に残した歌や映画やコンサートの映像、最後に残したメッセージ、そして、スィート・メモリーズがある限りアニタはみんなの心に存在する。
遅まきながら、アニタと共有したスィート・メモリーとまではいかなくても、私にもアニタが残してくれた歌や映像がかなり手に入った。彼女は単に歌のうまい人というだけではなくて、パーフォーマーと呼んだほうが適切だ。視聴者や観客を楽しませることがアーティストとしての使命だと信じていたアニタ・ムイ。これから彼女のことを語りついで行くことが、ファンとしての私の使命だと思う。
「私は28から30歳くらいで結婚して、32歳くらいで子供を生んで家族を持ちたいと希望していました。それなのに、とうとう(結婚もせず)40歳になってしまった私に何が残っているというの?(観客が「私たちーぃ」と叫ぶ)そう、私にはあなた方がいます」
「夕陽や黄昏はとても美しいけれど、ほんの瞬きをするくらいの短い間で過去になってしまう。だから、毎分毎秒を大切にして生きていかなければなりません」
---アニタ・ムイ 金曲経典演唱會(最後のコンサート)での言葉より---(2004年12月記)
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